Interview 写真家・島尾伸三さん、『まほちゃん』を語る

◎貧乏は大切なこと
島尾 わたしは子供の頃、喘息などをして病気がちだったのですが、病気も楽しむような子供でした。布団をかきむしるぐらいつらいんですが、今日の自分の喉の様子はこうだとか、こういう症状だとか大人に説明して笑わせたりして、病気の自分を楽しんでいました。競争して勝ったときは楽しいけれど、元気のない人には違うふうな楽しみ方もあると思います。わたしは今も無職同然で、ほんとんどモノを買うことがありません。ですから、小さい頃のまほの着ている服はぜんぶいただいたものです。でも、貧乏でいるということは私にとって大切なことです。わたしが勤めていて、いつも夜遅くに家に帰るような毎日だったら、このような生活はできなかったと思います。いい収入があったら、自分がなりたくないような、いやな奴になってたと思う。お金がなくて、心配もありますけれどそのほうがわたしにはいい。わたしたちの暮らしを皆さんにお薦めすることはできませんが、ホンマさんだけでなく、「この家に生まれたかった」っていう人はいますよ。わたしも登久子さんの子供として生まれたかったと思います。うるさいこと何にも言わないもの。登久子さんは、「子供は元気で遊んでいればそれが一番」と考えているような人ですから、世間的な見栄をはるために子供になにかするということはまったくありませんでした。

◎豪徳寺の一部屋はこどもたちのたまり場でした
島尾 まほが生まれて間もなく、わたしたちは豪徳寺にある木造二階建ての二階の一部屋を借りて、三人で暮らし始めました。その建物には何世帯かが住んでいていつも賑やかでした。隣の部屋には大家さんの親戚夫婦と男の子の三人兄弟が住んでしました。男の子たちと遊んでいるところにまほがハイハイして行くと、男の子たちは「怪獣が来た来た」と言って、まほを怪獣に見立てて喜んでいました。よちよち歩きをするようになった頃に、隣の建物に住んでいたまほより二つ年上の、かよちゃんっていう元気な女の子が遊びに来るようになりました。かよちゃんは保育園や幼稚園が終って退屈すると私たちの部屋に来て、まほを相手に毎日のように遊んでいました。

◎まほちゃんは、自分で自分の行く幼稚園を決めました
四歳ぐらいになったとき、まほも幼稚園に行くようになりました。ある日、電車の駅から幼稚園の庭でみんなが遊んでいるのを見て、わたしもあそこに行ってみんなと遊べるような年になったから幼稚園に行きたいと自分から言い出した。じゃあということで、登久子さんとわたしと三人で近所の幼稚園を四カ所ぐらい見て回って、そしたらまほはその中で一番ボロい幼稚園が気に入りました。自分で決めたその幼稚園に行くようになると、近所にも同じ幼稚園のお友だちができて、一緒に通うようになりました。かよちゃんは別の幼稚園に行ったんですが、家ではみんなでいつも一緒に遊んでました。

◎綿菓子も自分のお金でまほちゃんは買ってました
島尾 まほは生まれてすぐのときから、自分の預金通帳を持っていました。わたしたちは貧乏なので、子供にお金をかけられませんから、お年玉や入学祝いなどもらったり、区役所から就学奨励金をもらうと、そのお金をまほの口座に入れておきました。ですからまほは、まだ数字の計算などできない幼稚園の頃から自分の通帳を見て、自分がいくら持っているかちゃんと知っていました。お祖父ちゃんからもらった現金や通帳を自分の引き出しに入れて、自分のお金で幼稚園のときから買い物をしていました。だから、この綿菓子も自分で買ったものです。まほはどこの子供も自分で自分のお金を管理していると思い込んでいました。だから友だちが無駄遣いするのを見て、なんでだろう、って不思議に思ってたらしい。自分は自由に使えるお金があるから、あせって何かを買う必要もないので、まほは落ち着いていました。でも家族全体をみるとすごく貧乏なわけですけれど??(笑)。まほは、幼稚園の時から、大学の入学金以外の学費はすべて自分で払っています。小学校三年生の頃に、自分の通帳からPTAの会費が落ちているのを見てとても怒っていました。「給食費が引き落とされるのは自分が食べているからわかるけど、PTA費用をなぜ払わなきゃいけないのか」ってね。高校の入学の時には、お祖父ちゃんからもらったピアノを自分で売って、学費を作っていました。窮地にたたされると自分でいろいろ考えるでしょ。それぐらいがいいのだと思います。要するに私たちが貧乏だったので、必要にせまられてそうなっただけのことなのですが。

◎香港から来た留学生、チュンマンさんはお行儀にうるさかった
島尾 小学校の五、六年になるまで、わたしたち親は子供に勉強しろとか、言ったことはありませんでした。子供にとって勉強がそれほど大事なことだと思わなかった。ほとんどしつけもせず、ほったらかしにしていました。子供はご飯を食べて遊んでいればいいわけですから、プレッシャーもなくいつも元気にしていました。まほの絵日記に出てくるチュンマンというのは、香港から来た留学生の梁仲文さんのことです。わたしたち家族はよく中国や香港に旅行に行っていたので、その時に出会った人です。この写真は香港に行った時に撮ったチュンマンとまほです。チュンマンが日本に留学していた時にはよく家に夕飯を食べに来ていたんですが、「ちゃんとお箸を持って食べて下さいよ」とか「いただきますってどうして言わないんですか」とか口うるさくまほに言っていました。あんまりチュンマンがうるさいので、「どうしてチュンマンはわたしに文句ばっかり言うのか」ってまほは怒って言ってました。そうするとチュンマンは「正しい大人になるには、そういうことも必要なんです」とか言ってた。子供は親に言われるより、他人や友達に言われると受け入れやすいんですね。

◎ボーイッシュなまほちゃんは、男の子にもてなかった?
島尾 子供の頃のまほは、幼稚園や小学生の目から見ると男の子みたいで、かわいい部類には入らなかった。男の子に全然もてませんでした。髪が長い子やピンクのスカートはいてる子の方が人気があるのでしょう。ところがまほの着ているものと言えば、男の子のお下がりが多かったかので、本人は女の子らしく髪をのばしたり、スカートをはいたりしたがってました。

潮田 小学校を卒業する頃まで、まほの髪はいつも伸三さんがカットしていて、庭に出てたりして切ってたんです。でも、まほは気持ちの中では短い髪型じゃなくて長い女の子っぽい髪にしたくてね。だから、カットされるときには目に涙をいっぱいためてたわね。むずがったり、いやだとは言わないんですよ。でも自分の気持ちを一生懸命抑えようと我慢してるの。この時は、親戚の人にプレゼントされたワンピースを着て、靴もお下がりのお出かけ用のをはいて立派なお嬢さんになってるところだけど、部屋がちらかってるわね(笑)。
まほが着ている服は、全部いろいろな方からいただいたものです。私たちは一枚も買っていません。ほんとうに全部もらいもの。バザーに行った時にもらってきたり、親戚のお下がりとか、いただいたものとか。おむつまで救世軍のクリスマスのバザーでもらってきて使っていました。

◎まほの誕生日には、お祖父さんの島尾敏雄が遊びにきた
島尾 わたしの両親は、島尾敏雄とミホですけれど、当時茅ヶ崎市の東海岸に住んでいて、私と登久子さんはまほをつれて、月に一度とか私の両親のところに子供を見せに行きました。父と母はまほに会うのをとても楽しみにしていました。わたしたちの住んでいるところが、一部屋だけの狭いところだったけれど、私たちの家に、私の妹の摩耶がよく遊びに来ていました。妹は、言語障害になって言葉がよくしゃべれないんですけれど、まほととても仲がよく二人で遊んでいました。

◎白いアヒルの子
島尾 これは生まれてすぐのアヒルのヒヨコを近所のことり店で買ってきてきて、子供は白いアヒルになると信じて育てているところです。まほは童話に出てくるような白いアヒルが好きで、ことり店のおじさんに、大きくなったら白くなるよ、って言われて一生懸命育ててました。毎日小学校の帰りに八百屋に寄って、捨てる野菜をただでもらってきて、それを刻んで餌にしてました。ところが野鴨みたいなので、大きくなってもちっとも白くならなかった。それで、翌年も買ってきて育てたんだけど、それも白くならなかった。ついにカモが四羽になったんですけど、結局どれも黒いままでした。大きくなってきて庭は狭いのでかわいそうだかから、六年生になった時に、まほと相談して遠くの池に行って放してやることにしました。もう陽が暮れかける時間だったんですけど、箱から出して池に放した瞬間、カモは自分が行く場所がきまっているかのように、泳いで行っちゃいました。まほが涙ながらに名前を叫んでも、四羽とも振り向きもしない。そんなことがありましたね。